亡くなる少し前には一瞬だけ調子がよくなり、不安定だった血圧や心拍数や呼吸数や体温などが急によくなる!
こんにちは。まゆりんです。
亡くなる少し前には一瞬だけ調子がよくなることがあり、医学的には全身のバランスが一瞬だけ低い位置で整った状態を言います。
不安定だった血圧や心拍数や呼吸数や体温などが急によくなることがありますが、この状態は長くは続かず、再び訪れることはありません。
お父さんお母さん、今までありがとうございます!
私の母は、2012年9月15日(土)に自転車から転倒し大腿骨を骨折し、北海道室蘭市内の病院に入院しました。
当初、母は全治3ヶ月と言われていましたが、驚異的な回復で1ヶ月ほど経つと杖を使って歩けるようになりました。
その後、リハビリを続けましたが、高齢のせいかそれ以上は良くなりませんでした。
母は、足が不自由になってからは体調を崩し、亡くなる5年前から認知症になったので、糖尿病と肝臓がんで自宅療養している父がデイサービスやケアマネジャーや看護師などに助けてもらいながら、献身的に母の介護をしました。
私や弟は、老々介護状態の両親が心配なので、頻繁に北海道の実家へ飛行機で通い、家事を手伝いました。
母は亡くなる1年前から徘徊するようになり、父は疲労困憊し、北海道室蘭市内の病院へ預けました。
母は入院中に目眩を起こしたことで転倒し、脳梗塞になりました。
母は脳梗塞になってからは寝たきりになり、誤嚥性肺炎にもなりました。
母は抗菌薬の点滴で誤嚥性肺炎自体は改善したものの、身体の機能や飲み込みの能力が回復せず、口から十分な栄養を摂れる状態に戻りませんでした。
医師から、胃ろう(お腹に穴を開けて胃にチューブを通し、直接胃の中に栄養を送る)、中心静脈栄養(体の中心を通る太い血管に管を入れ、高濃度の栄養剤の点滴をする)、普通の点滴でわずかばかりの栄養を入れる、食べられる分だけを食べてあとは自然に任せる、そんな選択を母は迫られていました。
母は普通の点滴でわずかばかりの栄養を入れていたため、貧血になり、輸血をすることになりました。
私は母が心配だったため3週間ほど実家に滞在していましたが、輸血をしても拒絶反応がなかったので安心して、東京都内へ向かいました。
でも、東京都内に着いた翌朝、父から突然電話が入り、2021年4月27日(火)午前4時14分に母が亡くなったと知らされたので、また飛行機で北海道へ向かいました。
私の父は肝臓がんと糖尿病と心不全で自宅療養中でしたが、動悸や息切れや呼吸困難となり、2022年11月15日(火)に『社会医療法人 製鉄記念室蘭病院』に入院しました。
でも父は「余命は1ヶ月程度でこれ以上治療はできない」と医師から告げられ、2022年12月2日(金)に退院することになりました。
父はかなり衰弱し、1人で暮らすことはできないので、2022年12月2日(金)から『介護老人保健施設 グリーンコート三愛』で1週間だけショートステイをすることになりました。
私と弟は、2022年12月9日(金)に『介護老人保健施設 グリーンコート三愛』まで父を迎えに行き、『社会医療法人 製鉄記念室蘭病院』へ連れていきました。
父は『社会医療法人 製鉄記念室蘭病院』で肝臓がんと糖尿病と心不全の定期検診を受けると数値は横ばいでした。
その後、父は久しぶりに実家へ戻り、家族3人で食事をしました。
私も弟も長期的に実家へ滞在することは難しいため、2022年12月10日(土)に父を『介護老人保健施設 グリーンコート三愛』まで送りました。
私は2022年12月12日(月)に『介護老人保健施設 グリーンコート三愛』へ向かい、看護師に書類とカジュアルウエアなどを渡してから、父とオンライン面会をしました。
『介護老人保健施設 グリーンコート三愛』のオンライン面会は20分だけでしたが父の元気な姿を見ることができて良かったです。
肝臓がんの父は余命1ヶ月と言われていたのに一時的に調子が良くなり『介護老人保健施設 グリーンコート三愛』でカラオケを楽しんだものの、調子がよくなったのはほんの短い間だけで、また体のバランスが崩れて、血圧や心拍数、呼吸数、体温などがさらに不安定になっていき、呼吸のリズムが不規則になって、呼吸と呼吸の間隔が広がっていきました。
私の父は2022年12月17日(土)から高熱が続き、2022年12月18日(日)には動悸や息切れや呼吸困難になりながらも私に電話をしてくれました。
私は「体調が悪いならお見舞いに行くね」と言うと父は「大丈夫。お見舞いに来なくていい。」と言いました。
私と父は少しだけ雑談をした後、電話を切りましたが、2022年12月18日(日)午後11時20分に肝臓癌の末期のため亡くなりました。
私は2022年12月19日(月)にANAを利用し、鳥取砂丘コナン空港から羽田空港へ向かいました。
そして私はANAを利用し、羽田空港から新千歳空港へ向かいました。
私は友人と新千歳空港で待ち合わせをしてから、マクドナルド 千歳新富店へ移動し、ケーキを食べました。
マックカフェ バイ バリスタではデザート感覚でドリンクを楽しめるフラッペやスムージーも人気で、期間限定メニューも随時発売されています。
『塩バターキャラメルフラッペ&マカロン バニラ』は キャラメルペーストとロレーヌ産岩塩と発酵バターのベースにホイップ・キャラメルソースとマカロンをトッピングしたフラッペなんです。
私の息子はpeachを利用し、成田国際空港から新千歳空港へ向かいました。
私と友人と息子は新千歳空港で待ち合わせし、『北々亭 千歳店』へ移動し、食事しました。
かつて、息子が大学生だった頃に父と私と3人で『 サケのふるさと 千歳水族館』へ行き、サケの稚魚を放流させてから『北々亭 千歳店』のお寿司を食べたことがあります。
私は父と息子の思い出の回転寿司『北々亭 千歳店』でビールを飲みながら、父が元気だった頃を思い出しました。
私と息子は友人とJR南千歳駅で解散し、JR幌別駅まで向かい、登別市内の実家へ泊まりました。
ほんの数年前であれば父や母が温かく迎えてくれていたのに、もう父や母はこの世にはいません。
葬儀では落ち着いた服装がマナーとされ、派手な装飾品はふさわしくありません。
ネイルは装飾品と同様の扱いになり、派手なデザインはマナー違反と考えられています。
私はクリスマスシーズンということもあり、真っ赤なネイルをしていましたが、真っ赤なネイルのままでは父の通夜と告別式に出席することはできないため、急遽、ネイルサロンを探しました。
私は2022年12月20日(火)に千歳市内の『アルフィーネ』で他店付替えオフ(ソフト)とワンカラーを予約しました。
私は少し早くJR千歳駅に着いてしまったので、友人と『ガスト千歳店』で待ち合わせしました。
外食チェーン大手の『すかいらーくグループ』では配膳係として導入している可愛い猫型ロボットがいました。
ガストでは平日朝10時30分から18時までビールや角ハイボールや生搾りレモンサワーが通常より安く飲むことができるので、私はアサヒスーパードライジョッキとフルーツサングリアサワーを注文し、 友人は『デミたまハンバーグ』を注文しました。
『デミたまハンバーグ』はハンバーグに目玉焼きを添えて自家製デミグラスソースをかけた定番のハンバーグです。
『ガスト千歳店』で飲んだフルーツサングリアサワーがとても美味しかったのでまた飲んでみたいです。
私は友人と『ガスト千歳店』で解散し、千歳市内の『アルフィーネ』へ行きました。
『アルフィーネ』はヘアブースとネイルブースとアイラッシュブースの一体型サロンです。
ネイルブースでは定額で可愛い季節デザインのジェルネイルがたくさん出ていました。
ネイルブースでは押し花やマグネットネイルなど様々なネイルを楽しむことができます。
葬儀では落ち着いた服装がマナーとされているため、私は父の通夜と告別式ではベージュのワンカラーで出席することにしました。
室蘭市民斎場 雲上閣メモリアルホールでは家族が宿泊できる安置施設『メモリアルハウス 露風庵』を設けています。
私は、2022年12月20日(火)に『メモリアルハウス 露風庵』へ向かいました。
父の遺体は2022年12月19日(月)から『メモリアルハウス 露風庵』に安置されていました。
弟は2022年12月19日(月)から『メモリアルハウス 露風庵』に宿泊し、私と息子は2022年12月20日(火)から『メモリアルハウス 露風庵』に宿泊しました。
『メモリアルハウス 露風庵』ではリビングとダイニングキッチンと和室と浴室と洗面所とベッドとIHキッチンと布団と冷蔵庫とテレビが完備されていました。
『メモリアルハウス 露風庵』の浴室と洗面所には歯ブラシや洗顔フォームやタオルやひげ剃りなどアメニティも充実していました。
また、『メモリアルハウス 露風庵』のダイニングキッチンは食器や調理器具やホットドリンクが充実していました。
私は弟と息子と3人で、『メモリアルハウス 露風庵』最寄のスーパーへ行き、食材を購入しました。
私と弟は息子が『メモリアルハウス 露風庵』のダイニングキッチンで料理を作っている間に父の遺影の写真を選んでいました。
母の遺影は亡くなった年齢より少し若い頃の写真を使用したため、父も亡くなった年齢より少し若い頃の写真を選びました。
『メモリアルハウス 露風庵』のベッドは触れた瞬間に蕩けるような圧倒的な気持ち良さとマシュマロに包み込まれるような脱力感で幸福な睡眠を届けてくれました。
2022年12月22日(木)は弟と息子と3人でイオン 登別店へ行き、息子の喪服を買いました。
息子の喪服を買った後、亡くなった両親や弟とよく行った正直家 イオン登別店へ息子と弟と3人で行きました。
息子は正直家 イオン登別店へ行くのは初めてでしたが、息子は私の両親にとって初孫だったため、とても可愛がられて育ち、弟と私と一緒に思い出話に参加してくれました。
父は温泉が大好きで、温泉から出るといつも『コカ・コーラ い・ろ・は・す もも 』を飲んでいました。
自宅の風呂あがりでも『コカ・コーラ い・ろ・は・す もも 』を飲むので箱買いをしていました。
父はある日突然、この世からいなくなってしまい、実家には『コカ・コーラ い・ろ・は・す もも 』がたくさん残っています。
私は上質なきめ細かな口当たりとやさしい白桃の甘みがする『コカ・コーラ い・ろ・は・す もも 』を飲みながら、たくさんの愛情を私や弟に注いでくれた優しい父のことを思い出しました。
父は大谷翔平選手が大好きで『エンゼルス 定番キャップ ホーム ’47 クリーンナップ レッド』がお気に入りでリハビリの際いつも被っていました。
おそらく父は天国でも大谷翔平選手の活躍を願っていることでしょう。
父の通夜は2022年12月23日(金)18時から開始し、弟は喪主を務め、私は施主を務めました。
通夜は故人と最後の夜を共にし、別れを惜しむ場のため父の友人や親戚が集まりました。
父の友人はすぐに帰ってしまいましたが、親戚だけで夜通し別れを惜しみました。
私は2022年12月24日(土)8時から親戚と朝食をとり、9時から親戚と集合写真をとり、10時から葬儀告別式の施主を務めました。
葬儀告別式を終えると父の遺体を納めた棺を遺族の送迎バスに乗せて火葬場へ向かいました。
私は1時間半、親戚と食事をし、火葬が終わると竹箸ではさんで拾い、足の骨から順に広い、骨壺に納めていきました。
私は清潔で明るい『メモリアルハウス 露風庵』で、弟や息子と一緒に心静かに父の旅立ちを送ることができました。
私は母の葬儀が終わってから遺品整理をし、母の直筆の『経帷子(きょうかたびら)』を見つけたので、父の棺に入れました。
『帷子(かたびら)』とは単(ひとえ)で仕立てられた裏地のない着物のことです。
『帷子』に故人の極楽浄土を願う意味を込めて経文が書かれることがあり、『経帷子』と呼ばれています。
私は火葬が終わった後に位牌や遺骨を実家の祭壇で祀って保管し、四十九日を迎えるまでの間は供物などを飾りました。
まとめ
今はとても辛いけど無理に気持ちを抑え込まずにいつの間にか父のことを思い出しても辛くならない日がくるまで無理に忘れようとせず、自然の感情にまかせて過ごしたいです。
私は毎日のように朝と夜に父の携帯電話に電話をしていましたが、もう電話に出ることはありません。
最愛の父が亡くなり、父のことを思うと胸が締め付けられます。